大祓詞について

 大祓詞おおはらへのことばは、祝詞のりとの中でも典型的というか一般的というか、多くの人が知っているし、ずっと受け継がれてきていることからもわかるように真理を表現している祝詞だなと感じます。そもそも祝詞の作者は不明です。でも、今でも残っています。それだけで如何に素晴らしいものであるかご理解いただると思います。恐らく、その当時のチャネラーが受け取ったものを言葉で表現しているのだと思います。
 祝詞には、言葉の意味がある程度わかるような思考で理解できるタイプと、脈絡のない音の連なりのタイプとがあると思います。私は勝手に前者をコトダマ式、後者をオトダマ式と定義しています。
 大祓詞はコトダマ式に該当しますが、内容はとてもスピリチュアルで、意識的に受け取った感覚を言葉を通して表現したものだと考えています。それもフラクタル構造をしているので、視点を宇宙や地球においたり、日本という国においたり、人間においたりすることで規模が変化するのですが、構造が相似になっていると捉えています。
 例えば、「八百萬神等を神集へに集え賜ひ~草の片葉をも語止めて」の部分は、思考まみれのマインドがだんだん静まり、意識を高次の存在に向けることでそことの繋がりが生じて「光の柱」を構築する様子が表現されていると捉えることができます。「下つ磐根に宮柱太敷き立て」の部分がそれに当たります。
 「安國と平けく知ろし食さむ國中に成り出でむ~許許太久の罪出でむ 此く出でば」の部分は、思考で自分自身や周囲の人を裁いたこと、傷つけたこと、呪ったことに対して罪悪感を作り出したことを表現していると捉えられます。それらを最後には神々として機能している高次の意識の助けを借りて、消失させるようなことが記されています。つまり、ずっと握りしめていたであろう罪悪感を許して、手放したという内容としてとらえることができます。この捉え方は1つの視点にすぎず、別の捉え方も可能かと思います。
 途中で、「八針に取り裂きて 天つ祝詞の太祝詞事を宣れ
 
此く宣らば 天つ神は天の磐門を押し披きて」の部分がありますが、普通に考えて、「太祝詞事を宣れ」と指示したすぐ後に「此く宣らば」と続いているのはおかしな内容です。この間に何か省略されていたものがあると捉えるのが自然です。私が学んだ「物部鎮魂法」においてはこの部分に、その神事(祈祷など)において必要とされる祝詞が奏上されたと考えていました。典型的には「ひふみ祝詞」でしたが、これに追加される場合もあったように記憶しています。この部分に奏上されるということは、それだけ効果の高い、パワフルなものであるとも考えることができると思います。